鬱的人生観からの解放

心療内科通院中の現在無職。こころと体をより健やかにしようと日々ゆるく頑張ってます。Twitterやってます→@kyu_shi_chan

6月28日 診察

今更ですが、6月28日の診察記事を書きます。 大切なことなので確認がてら。

・主体性を取り戻した話。主客が逆転してた。
↓詳しく。
6月中旬くらい、急に色々な物事に縛られている気がして嫌になった。
今まで、「何をするか」や「何が好きか」で自分が決まると無意識に思っていたみたいだった。
だけど、まず自分という軸、主体があって、その上で「何をするか」「何が好きか」が決まる、ということに気付いた。
だから何をしてても、たとえ今とまったく違う外見であったとしても、私は私で変わりはない。

これに気付いてからキャパシティが増えました。前より疲れにくくなったけど、過活動じゃなくなった感じです。
でも、その「過活動じゃない感じ」「疲れてない実感」ってどのくらい当てにしていいのかな、とちょっと疑問。
当てにしていいかどうかを分けるのは、①一歩引けているか ②余裕があるか 辺りかな?と思っています。
ちょっと診察時のメモに明確に記載が無いので、うろ覚えですが、これについては先生も「そうだ」と言ってくれていたように思います。

で、この診察の時から約2ヶ月経った今ちょっと引っかかった部分があります。
「何をしてても」私は私で変わりはない。という部分に関しては今現在もそう思えているのですが。
「たとえ今とまったく違う外見であっても」私は私で変わりはない。という部分に少し引っかかりました。
今現在、そういう風には思えていないな、と思います。
私自身、過去に摂食障害になった程体型に悩んでいた時期があります。つまりそれほど容姿についてのこだわりやとらわれが強いんですね。
6月頃は上手くその辺のこだわりやとらわれをゆるめられていた時なのかなぁ?と思います。
なんというか、「外見は全然私の本質じゃなくて、私の本質は魂にあって、その魂が変わらなければ、外見が変わったって私は私である。」という感覚でしょうか。
今もなんとなくその感覚も持っているのですが、6月頃よりは容姿に対しての執着が強くなっているな、と感じます。
それがいいのか悪いのかはよく分からないですが。。。
でもたぶん執着が薄い方が生きやすいのかなぁ?とは思います;;


・余裕ってなんだろう?
↓先生からの解答
そこで、立ち止まって考えられること。
いっぱいいっぱいだと考えられなくなって、過集中とか視野狭窄に陥る。
「大丈夫かな?」と思えること自体が大丈夫。
選択をしている(考えている)時点で余裕あり。
その選択も練習なので、失敗しても悪いことではない。
だそうです。
この時(6月頃)の私は結構立ち止まって「大丈夫かな?」と振り返りながら生活できていたので、余裕があったということになるそうです。
この話はまた長くなりそうなので、別の機会に書きますが、7月〜今月にかけて、暴走してしまって(活動し過ぎてしまって)かなり調子を崩しました。
振り返ると、立ち止まって「大丈夫かな?」と自分の状況をよく確認せずに物事を推し進めていってしまっていたな、と思います。 これは大きな反省です。
結構前の診察で、「1日の最後にその日の振り返りをしよう」と言われていました。
それがおろそかになっていたなぁ、と思うし、なんならここ数日の間でもおろそかになっているので、きちんと習慣化していきたい所です。


・今の所は「自分のペースで」というのを大切にした方がいいのか。
「自分のペースで出来ないこと(例えば仕事とか)に、主体性を介入させる」ということはまだ難しくて出来ないと思う。

これについて明確にyesかnoで答えてもらったかどうか覚えてないのですが、「今は社会とそこまで接点無くて、自分の世界を作っている最中だよね。」という風なことは言われました。
あとは、"主体性"とか"コントロール感覚"のことを話してくれました。
嫌なことやらないといけないにしても、物事にコントロールされているのではなくて、自分がその物事をコントロールしている感じを持てるといい。
物事に巻き込まれないことが大切だ、と。
主体は自分にあるのであって、物事に主体があるわけじゃない、そこの所が大切だということでした。

洗濯機を例にした例え話をしてくれました。
洗濯機ってぐるぐる回ってますよね。それが「物事」であるとします。その「物事」(洗濯機の回っている部分)に自分も入ってしまって、一緒に回ってしまうとダメだそうです。一緒に回ってしまうと物事全体が見渡せないし、流されるままになってしまって、主体性を介入させられなくなる。
あくまでも、洗濯機を回しているのは自分なんですね。一緒に回るのではなくて、回っている所を外から見る。つまり物事を操作しているのは自分だということです。これがまさに"コントロール感覚"ですよね。
「回っている所を外から見ている」ということは、物事全体を見渡せている、俯瞰の視点で自分を見れている、客観視出来ている、ということだから、視野も広いし、自分がどう動くべきかということも見えてくる、ということだと思います。

今書いた、"コントロール感覚"と"主体性"、この2つをしっかり持てていると、ストレス度がグッと下がってくるそうです。
「主体性が持てている」とは、一言で言うと、「自分のすることを自分で認めている」ということだそうです。

昔の私のことを少し思い出したのですが。
昔の私は、何か自分のしたことを褒められても、あまり嬉しくなかったし、なんだかそれに対して違和感があったんですね。
それって主体性が無かったからなんだなぁ、と今になって気付きました。
この記事の最初で書いたように、私は、この6月中旬にやっと主体性の片鱗を掴みました(「何をするか/好きか」で自分が決まるのではなく、自分という軸があって初めて「何をするか/好きか」が決まると気付いた、という話のことです)。
なので当然、それまでは主体性が無かった、つまり、自分のすることを認められていなかったんですね。
自分で決めたはずのことでも、他人の目を気にして決めていたり、周りに流されるまま決断してしまっていたので、「不本意でやっている」みたいな感覚になっていたんだと思います。
自己肯定感の低さから、なんとなく自分を認められなかったこともあって、自分が好きでやっていることでも、ちゃんと認めてあげられていなかったのだと思います。
「そりゃ、評価されても嬉しくないよね。」と今腑に落ちました。


この時の診察の総括としては...
失敗も経験。
立ち止まって(しっかり自分を俯瞰視、客観視して)自分で選択したという事実が大切。
結果はついてくるもの。
ということでした。
なので失敗しても、また選択していけばいい、ということですね。
今は練習している最中みたいな所なのかなぁ、と思います。
「この感じを保持していけるように。」とのことでした。
で、ちょっと最近(7月~9月)の自分を振り返ると全然「この感じ」を保持できて無かったなぁ、と。
これからは、前ばかり見て突っ走らずに(洗濯機の中身と一緒に回ってしまわずに)、しっかり自分を振り返って自分の意志で選択していきたいです。



余談なんですが、主体性の話をしていたときに、先生が「社会と接点を持つと、もう一つ軸があるといい」と言ったんですね。
それってコントロール感覚のことなんでしょうか?
時間が無くて、その「もう一つの軸」がどういったものなのか聞けなかったのですが...。
また聞けそうなら聞いてみたいと思います。